面無橋

長崎県島原半島の南部、南島原市北有馬町を流れる有馬川の支流には複数のアーチ型石橋が架かる。その一つ、同町面無に架かる面無橋(おもなしばし)は自然石を用い、江戸時代末期に造られたと伝わる。


加工された切り石を用いるのが一般的であるが、自然石を用い組み上げられたアーチ型石橋は稀とされる。石橋の上部はコンクリート舗装され、暮らしの道として機能する。幅員は3mほどで、軽トラックなどは難なく通過できる。特段の交通規制もなされていない模様。


欄干はなく、暮らしに溶け込んだ風景である。所在地周辺は雲仙岳の南部斜面に位置し、川を流れ下る水量、速度とも大雨時には危険度が高まる地形と思われる。しかも川は石橋のあたりで右へ曲がり、大雨時には左岸側に強い力がかかると危惧される。過去の大雨を耐え、現在に至っていることから施行者の技術力は相当高かったのかもしれない。


竣工からすでに150年以上が経過している。先人の技術を今も享受できることに感謝したい。

面無橋
長崎県南島原市北有馬町面無
県有形文化財「有馬の石橋群5橋」のひとつ
竣工:江戸時代末期
見学自由
駐車場なし
撮影:2023/5/25

旧埼水門(移築)

大分県と熊本県から福岡県、佐賀県を経由し有明海に注ぐ筑後川の河口付近に設置されていた樋門の一部が改修を期に移転され、公園内に保存されている。


旧埼水門は1901年、田手川が筑後川と合流する千代田町黒津と久留米市城島町浮島の地先に設けられ、有明海の干満の影響を防止することを目的とした。レンガと石材ブロックで築造、木製の観音開扉の扉が2つ設けられていた。

1950年にはコンクリートブロック造の1門が追加設置されたがその後、老朽化のために役割を終えた。1981年、現在地に移転され保存されるに至る(現地説明板)。


公園は田手川の左岸に位置し、自由に遊べる広場と桜やつつじが植栽されたエリアで構成されている。駐車台数30台弱、面積2000㎡ほどのコンパクトな公園だ。埼水門は公園の南エリアに設置され、木々の中にひっそりと佇む。天板に上ることができるよう階段が設置されている。


特徴ともいえる赤レンガと黒い石材ブロックのコントラストと造形には一見の価値を見出す。レンガは長手積みと思われる。水門が求める強度を想像すると稼働当時の積み方も長手積だったのか、疑問は残った。


公園は整備され、つつじが満開を過ぎたばかりの花を咲かせていた。桜は新緑を満たしていた。満開のころは賑わっていたかもしれない。

旧埼水門(きゅうさきすいもん)
佐賀県神埼市千代田町渡瀬1606(次郎の森公園)
竣工:1901年12月20日
設計:原 静雄
見学無料
駐車場あり(無料)
撮影:2023/5/5

眼鏡橋(諫早公園)


諫早駅の東側、整備された広場から南東へ10分少々本明川に沿うように歩くと、右手に緑のエリアが見えてくる。諫早公園だ。

公園には水が引き込まれ池が設けられている。眼鏡橋はこの池に架かるが、竣工のときからここにあるわけではない。

眼鏡橋は昭和33年(1958年)、重要文化財に指定されている。掲示板によれば、昭和36年(1961年)に本明川から移設されたとあるから、重要文化財指定後、現在の場所へ移設されたことになる。


重要文化財に指定された後の移設には学術的な見地からの助言を踏まえ、綿密な計画が練られたであろう。移設の判断に際しては、関係した当事者でなければわからない心労もあったに違いない。

本明川に架かっていた当時の写真が掲示板に載せてある。60年強前には面前の川にその姿があった。架かっていた場所は現在地から450mほど下流、割烹北御門の前あたりだったようだ。


移設の発端は、昭和32年に発生した水害、死者行方不明者630名の被害をだした。川幅を広げる計画が持ち上がり、眼鏡橋の撤去が必要となった。爆破撤去の案もあったようだが、現在地への移設となった。


眼鏡橋は1893年(天保10年)に完成しているから、183年のときが経過している。今も眼鏡橋は徒歩で渡ることができる。階段があり、幅は5.5mある。現在の住宅地では4m幅員の道路が必要とされるから、竣工当時としてはかなり広い橋だったに違いない。


ふたつの湾曲で描かれる弧は優雅で、美しいとさえ感じさせる。組まれた石が生み出す模様が優美さを増しているのかもしれない。完成当時の日本で最も長い石橋だったらしい。

実用性と美を兼ね備えた江戸時代の石橋、効率性を求め遊びを許さない現代では生まれない美かもしれない。

眼鏡橋
長崎県諫早市高城町(諫早公園)
重要文化財
見学無料
駐車場あり(無料)
撮影:2022/10/10



泉山磁石場

佐賀県有田町の東部、武雄市山内町と接する辺りを泉山という。黒い岩と緑の山々が風景をつくる中、硫黄山のような表情を見せる一角がある。


磁石場だ。磁器の原料となる陶石を採取した場所である。1980年、国の史跡に指定された。現在は有田焼の原料としてはほとんど用いられていないらしい。

泉山磁石場は、1616年(江戸時代初期)に有田町へやってきた李参平こと初代金ヶ江三兵衛によって発見されたとされる。李参平は豊臣秀吉によって朝鮮から連れてこられた陶工らのひとりであった。


磁石場内へ立ち入ることはできないが、磁石場を一望できるポイントは小規模公園として整備され駐車場も用意されている。鎖の手前に立つと磁石場の広さを感じる。右手奥には横穴を二つ観ることができる。陶石を掘り進んだ跡だ。


グーグルマップで計測すると、掘られた面積は1万㎡を超えているようだ。すべて手掘りというから、途方もない年月と労働力が注がれたのだろう。


この陶石をもって生まれた磁器は世界を魅了したという。


泉山磁石場
佐賀県西松浦郡有田町泉山1丁目
0955(43)2678(有田町歴史民俗資料館) HP
国史跡
見学無料
駐車場あり(無料)
撮影:2021/3/17

陶山神社鳥居

佐賀県有田町。陶器市の開催場所となる街並みから徒歩数分の場所に神社がある。境内に至る階段を上り終えるとJR九州の線路が横たわる。

左右を確認し渡ると参道は急な階段へ続く。左へ折れながら階段を慎重に上っていくと乳白色の青磁で覆われた鳥居が迎える。

2020年3月に修復を終えた鳥居はクスミや汚れが除かれ、美しい印象を与える。地元新聞社(佐賀新聞社)のネットニュースによると、2019年11月から修復作業が始まり、2020年3月に完成した。

修復の目的は、落下した破片の復元、落下の危険がある部分の接着、汚れの除去、修理履歴の調査などである。

特筆されるのは鳥居の柱の内部が赤土を固めたものであったこと。モルタルかコンクリートを詰めて強度を確保していると思われていたらしい。

奉納されたのは明治11年(1888年)、当時の技術力に驚く。3月中旬、桜がほころび始めていた。鳥居の側からは穏やかな時間につつまれる有田の町並みが続いていた。


陶山神社鳥居
佐賀県西松浦郡有田町大樽2丁目
0955(42)3310 HP
国指定登録有形文化財
竣工:1888/10
製造人:岩尾久吉
見学無料
撮影:2021/3/17

岩坂堰

佐賀県西部を北へ流れる松浦川の支流のひとつ、徳須恵川に石積みの堰がある。ただ、堰への道順を示す表示はもちろん、堰を間近にしても堰に関する説明板などは見当たらない。


国土地理院の地図(25千分の1)にも堰の名称は表示されていない。堰の場所を知る手掛かりは、インターネット上に公開されている松浦川の説明資料(国土交通省)だ。


探し当てた岩坂堰は目測で幅25m、高さ2mほどと推われる。特徴は石で組まれた堰堤だ。組まれた石の一つ一つが幾何学美を作り出す。
堰堤を横から見るとカーブを描いていることがわかる。越流した水が這うように堰堤を越えていく。


土砂を逃がす窪みの部分を覗くと、石積みの方法がよくわかる。江戸時代に作られたと推定される岩坂堰、当時の土木技術に驚く。


現在も農業用水の取水施設として機能し続ける。
 
岩坂堰
伊万里市南波多町(徳須恵川13.8㎞付近)
農業用水取水堰
見学可 駐車可
撮影:2021/3/10

大黒堰

松浦川は佐賀県の西部を北へ流れ、唐津湾へそそぐ1級河川である。幹川流路延長は47㎞とされる。


河口から26.2㎞上流、伊万里市大川町に幅約100mの堰が設けられている。1595年(安土・桃山時代、文禄4年)、寺沢志摩守の指示で着工したと伝えられる農業用水取水堰だ。現在も建設当時の機能を引き継ぐ。



堰を目の前にし、堰堤の長さに驚く。コンクリートで固められてはいるものの、堰堤の上部ではあちらこちらで石が顔を出す。

堰堤の下部は直線だが、水を堰き止める上部は弧を描く。導水路への流れを促す役割があるのだろう。説明板には堰の建築には40年ほどの歳月を要したとある。難工事であったようだ。


松浦川から引き込まれた水は導水路を通り再び松浦川へ放流される。導水路の途中に堰が設けられ水路へ引き込まれる。引き込まれた水は伊万里市大川町の水田を潤すのだ。


堰の西側(左岸)は小規模公園として整備され、導水の仕組みを学ぶことができる。敷地内には石碑が設置されていることから、堰の建設がいかに重要な事業であったかがわかる。

下流から堰堤へ向かい岸を進んでいたとき、左岸の石垣に文字が刻まれた石を見つけた。


大黒堰
伊万里市大川町(松浦川26.2km地点)
管理:武雄河川事務所
農業用水取水堰
見学可 駐車可
撮影:2021/3/10